がする人がこの世間には多いねん。元エネチケーやいうたらジャーナリストな気がするし、どこそこの大学で教えてます言うたら立派な学者さんのような気がするひとがこの世間には多いねん。だから大事なことはそういうやつを地が裂けてもそいつが望む扱いで呼ばへんことやねん。せんせ、たのみまっせ。

いのち


もうけっこう前の話だけれど、ある日テレビをつけるとその当時の首相が映った。外遊に行って、つまり国外で、記者会見をしているようだった。と思ったが、それは記者会見というよりは外遊による首脳会談後のある種のコミュニケを述べている光景だった。


それが何の話題だったのか把握する間もなく、彼はその外遊におけるトピックについて「自分の政治生命を賭けて」コミットするとはっきり述べていた。


私はあまり政治家の言に愕然としないタイプだと思うのだが、その時は別だった。トップになる前の政治家が「政治生命を賭ける」と言うのは、市場のおっさんが「安いよ安いよ」と呼びかける口上と同じくらいの価値でしかないが、トップに立っている政治家がそう言うのは、横綱が「来場所は勝ち越したい」と言ってしまうようなもので、そのコミットしたトピックの成否に関わらず致命的である。しかもそれを外遊先で真面目な顔で言っているのだから、もう無茶苦茶だと思った。こんなことあるのかよと私はテレビに向かって呟いていた。


とはいえ、そのこと自体は特に騒がれることなく、しかし結局それからさほど間がなくして、彼はその職を辞めた。私はもちろんそれで彼の政治生命は終わったと納得していたのだが、どうもそういうわけでもないようで、この国の政治というのはほんとに怪奇というかゆるゆるである。


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電子書籍リーダー雑感(3)

新機種そろいぶみ

Reader、KoboKindleの順で新機種が発表された。Readerが発表された時点で私ははてぶにこう書いていた。


>ディスプレイが事実上一社一製品の独占状態なので、機械としての差別化は難しいよね。


現状、主要な電子書籍リーダーのディスプレイはe-Ink社のPearlという製品が独占していて、結果的にどこも横並びの解像度800x600の白黒16階調のモデルばかりだった。だから、機械としての差別化はディスプレイを駆動する回路だとか、ソフトウェアだとかフォントだとかバッテリだとかでするしかない。そんな中で、新Readerはデザイン以外では特に機械としての目新しい変更があったわけではないが、ソニーは懸案の日本国内販売価格を9,980円とし、他機種に対する価格競争力をなんとか確保した。そう思っていた。

    • Kobo Glo:解像度1024x768、フロントライト搭載
    • Kindle PaperWhite:解像度1024x768、フロントライト搭載、地の色をより白く


e-Inkが新世代の製品を投入したのかと思ったが今のところ特に発表はない。あれと思ってあわてて電卓を叩いたら、6インチ800x600だと解像度は約170ppi、6インチ1024x768だと解像度は約200ppiになる。Pearlのカタログスペックは、もともと最大200ppiである。つまり、Pearl自体に伸びしろが残っていたのだ。


結果的にSonyは価格面ではほぼほぼ追いついたものの今度はディスプレイという肝心な部分で一世代遅れをとったわけだ。ちなみに先々代のReaderの時はネットワーク機能で遅れをとっていた。念のため述べておくと、SonyKindleよりももちろんKoboよりも何年も前から電子書籍リーダーを販売してきた会社である。


ちなみに新Readerには先着10万名までハリー・ポッターの第一巻(900円)がおまけでつくそうである。このおまけをもらえない人というのは、はたして現れるのだろうか。


新ディスプレイ


というわけでKoboKindleに搭載された200ppiのディスプレイだが、まだ実物を見ていないのでなんともいえないが、前回書いたように6インチ800x600のディスプレイでは日本語表示に解像度的な不満を感じていたこともあって、それが改善される可能性はあると思う。それから、KindleがPaperWhiteと商品名にまで謳った「地の色が灰色から白に」というのも前回書いた不満点の解消なので、自分でも意外なほど購買欲をそそられている。とはいえ、去年買ったKindle4に特に不満もないので、少なくともKindle日本上陸までは様子見できるだろう。


廉価版


そういえば、KoboKindleはそれぞれ廉価版ともいえる機種を設定していて、Kindleの広告付きモデルで約5,000円、Koboの小型版が約6,000円という感じで、電子書籍リーダーの値段はもう一段下がると以前書いたような状態に着々と近づいている気がする。なおReaderはなぜか小型版が無くなってしまったもよう。


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領土紛争というのは実効支配している側は余裕でかまえ、そうでない側が騒ぎたてるものだと思うのだが、「領土紛争している」ことそれ自体に歴史的価値を見いだしている場合、また違ってくるのかもしれない。

昔の名前で


うらやましいなあと思うのは、たとえばアメリカで、もう過去の人というか、その人が全盛期だった時まだものごころついてませんでしたよ、みたいな人が、普通に年間数百のライブをこなしてもれなく万単位の人を集めて、要するに好きなことやり続けて悠々自適ですみたいなことを知った時だ。


あるいは、イタリアのそんなに大きいというわけでもない都市で、ほぼほぼ毎晩オペラをやっていて、チケットは3ユーロくらいで、演者は地元の同好会だけというわけでもなく、当たり外れはあるけれど有名な人もくるし、みんな目が肥えてるから良いも悪いもわいわいやってるよみたいな話を聞いたとき。


すげえなあ。それを支える市場があるんだなあ。と。


東京にいて、大阪のブルース文化みたいなのもそうなのかなあと。よくは知らないけど。そう思ってみれば東京だって、おおすげえ懐かしい子供の時ベストテンで見たっきりだよみたいな人が、懐メロのためにというわけでなくライブをやっていて、平日の朝から客が並んでたりする。


第一線をめざすことは若者の特権だと思うが、それをとっくのとうに過ぎてもまだ続けられるというのは、本人と周りの人間の「懐」次第なわけだ。と、思うのは歳をとったということなのだろう。やれやれ。


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