ウイリアム・ギブソン連続体

突然、目の前の画面が消えた。俺の二時間の作業がディラックの海に還った。悪態をつくのと同時に端末が再起動リブートを知らせる暢気な音を上げた。復帰までにカフェインを補給しようと、俺は台所へ立った。


瞬停か。築二十年の集合住宅の電気配線で綱渡りをするもんじゃない。自宅より職場で作業した方がよかったか。

冗談じゃない、と反論する自分の声が聞こえた。この二週間は忙しくて職場に行けなかったのだ。その前のひと月は忙しくて自宅に戻れなかった。「君も我らが死の行軍デスマーチに参加せよ」と仮とはいえ辞令に書く馬鹿がいたのだ。日付は三月三十二日になっていた。四月馬鹿エイプリルフールではない。ただの馬鹿だ。

端末の前に戻ると、画面には見慣れた認証画面ログインプロンプトではない何かが映し出されていた。黒背景に蛍光色の立体の幾何学図形がいくつも浮かんでいる。画面の中央で回転しているのはレモン色の正四面体だ。くそっ。


再起動を八回繰り返した。CD起動どころか、BIOS画面に入ることもできず、メーカーロゴさえ表示されないことを思い知らされた後、俺は結局その四面体をにらみつけていた。


ウイルスにしてはよく出来ていた。それは認めよう。画面の中の立体空間は滑らかで、端末の表示性能を超えているようにさえ思えた。少したつと、俺はその空間を自由に移動したり回転させる操作ができるようになっていた。なにはともあれ、故障しているわけじゃなかった。

場当たりアドホックな操作をいくつか繰り返しているうちに俺はどこか見覚えのある光景を俯瞰していた。大きさの違う立方体が三つと、それよりは小さな正三角柱が一つ。それぞれの立方体から三角柱に薄い水色の線がつながり、その上を黄色の光点ブリップが行き交っていた。三角柱の向こう側には緑色の線が画面の中の無限遠へと伸びていた。


これは、我が家の三台の端末の配線図と同じじゃないか。


俺は三角柱の中に入って、緑色の線――そこからはトンネルのように見えた――の中に入った。何度か乗り換えがあった後で、広い部屋のような空間に出た。そこの壁には俺が通ってきたのと同じような穴がいくつも開いていて、俺が見ているのと同じような立体図形が出入りしていた。反対側の壁にはこちら側より数は少ないが、ずっと大きな穴が開いていて、立体図形たちが吸い込まれて行った。


自分の見ている物がISPの接続網だと見当をつけると、一番太い穴の中に飛び込んだ。今までとは数倍の早さで前進し、今度は体育館のように広い空間に出た。球形の体育館がもしあればの話だが。とにかく、きっとここは大手町のIXだ。

馬鹿げたことに俺の勤め先は外資系でもないのにアメリカ大陸の西海岸の情報中心データセンター処理系本体メインフレームを置いていた。もっと馬鹿げているのは、その時の俺はまだ仕事をしなければいけないという思いに駆られていたことだ。そのために西海岸に行かなければならない。大手町からなら太平洋を渡れるはずだ。

間違って堂島に出たりした後、俺は西海岸に上陸した。鍵盤キーボードを叩いて俯瞰状態バードビューに移行して辺りを見渡すと、そこには様々な大きさの直方体が悪趣味な蛍光色に輝きながら林立していた。うちが入っている情報中心がどれだか、皆目見当がつかなかった。

俺は、なんでも大きくて太くて固くて黒いものが良いと訓示を垂れる社長の下品な顔を思い浮かべた。試行錯誤トライアンドエラー。おあつらえ向きに大きくて黒くて固そうな立方体が近くにあった。近寄ってみると、それは電源を切った画面よりも黒く、角は手が切れそうなほど直角だった。

その中に飛び込もうとすると、突然、画面の中の俺の周囲に無数の光点が沸き出して、羽虫の群れのように俺を包んだ。生理的な嫌悪感から、俺は後退した。するとその光点の群れが追いかけてくる。俺は声をあげそうになりながら、急速反転フルリバース鍵盤キーを叩いた。


あっという間に大手町まで戻ったが、すぐに光点の群れも太平洋を渡ってきた。だが、今度は俺にある程度の距離を置いていた。不審気に見守る俺の前で、それは凝集して人の形になった。

それは日本のアニメによく出てくる少女のような姿をしていた。肩幅よりも頭が大きく、目は拳ほどもあって、その中の星の数を数えることができた。緑色の髪の毛の中からは猫の耳が顔を出していた。無意味に裾の広がったミニスカートからは尻尾が伸びていて、不自然に豊満な胸元を隠すエプロンには「HENTAIおたく」と書かれていた。

彼女が口を開いた。
「ひどいじゃないか。君を救ってやったのに。」
って、男かよ。
「救うって何から。何故。」

黒い氷ブラックアイスだよ。もちろん。死の立方体キューブオブデス。君はもう少しで平坦化フラットラインするとこだったんだぞ。」

何を言っているか一つもわからなかったが、日本語なことだけは確かだった。

「何故といえば、君は日本人だろう。日本は僕の魂の故郷だからね。ここは秋葉原アキハバラから近い。こんなすばらしい所に住める君がうらやましい。」

「黒い氷だとか、平坦化だとか、オタク用語じゃなくて、わかる言葉で説明してくれないか。」

「君は電脳空間サイバースペースには慣れていないようだね。」

「それはオタクの世界で言うインターネットのことか。」

「インターネット?いいや、ここは電脳空間だ。カウボーイが企業の黒い氷を貫いてデータ海賊を働く仮想世界バーチャルワールド。」

「悪いけど、意味が分からないね。俺は仕事をしなくちゃいけないんだ。」

「ああ、君はスーツ族さらりまんなんだね。君の勤めている企業はなんという名前だい。」

俺は社長の友人のもっと下品な人物の経営するもっと大きな企業の名前を出した。社長がその企業と同じ情報中心を使いたがったがために、俺は西海岸まで行ってこんなアメリカンオタクに遭遇する羽目になったのだ。
「じゃあ、君の選択は正しかったし、やはり致命的に間違っていたことになる。君の企業はあの黒い氷の中だよ。」
「あの中にやらなきゃ行けない仕事があるんだ。」

「では君に必要なのは正規の認証鍵パスワードか、腕のいいカウボーイかということになる。心当たりは?」

「あるわけ無いだろ。そんなもん。」
奴の猫耳がふさぎ、尻尾が垂れた。
「残念ながら私はカウボーイではないのでね。脳を灼かれるのはご免だから。」

「そもそもなんでこんな馬鹿馬鹿しいことになってるんだ。人間が手動で経路探索ルーティングしなきゃいけなくて、それも物理的な回線を選んで物理的な場所に行かなきゃいけないとか。サイトの容量がそのまま見かけの大きさになってたり、アドレスで接続できないからどこに何があるかわからないとか。」

「確かにそれが電脳空間だよ。君は飲み込みが早い。カウボーイの素質があるのかな。」
「そのカウボーイだとか、黒い氷だとかも意味がわからん。それって要するにクラッカーとセキュリティ対策のことだろ。クラッキングくらいで脳が灼かれるとか、阿呆か。」
奴は肩をすくめ、両手を上げた。
「君の言うインターネットのことはよく分からないが、僕はこの電脳空間の方が好きだね。つまり君の知ってるカウボーイは平坦化する危険を犯さないんだろ。それじゃディクシーのような伝説の人物になれないじゃないか。」
「その代わり、自分の仕事をしようとして、もののはずみで殺されたりしないぞ。」

危険無しノーリスク神話無しノーミス。君の方の仮想世界にも犯罪者がいるんだろ。人間は昔から仮想世界を想像してきて、それが得られると、想像通りに実在世界リアルワールドと同じようなセックスと暴力を始めるんだ。やることが同じなら格好いい方がいいじゃないか。」

俺は端末の電源を切った。電源ケーブルを引き抜き、回線を引きちぎった。たわごとはたくさんだった。それから最低限の身支度をして外に出て、タクシーを拾い職場に向かった。料金を支払う時になって気がついたが、割増を取られる時間になっていた。


無人の職場に入り、自分の席に向かう間、誰かの席の前を通りすぎる度にその机の上の端末から起動音が鳴った。自分の席につくと、画面の中央にレモン色の正四面体が回っていた。くそっ。いったいこれはなんだ。どうしてこの忙しい時に誰もいないんだ。


もう知るか。


俺は何の届けも出さずに仕事をやめた。そうしたのは俺が初めてではないし、こういう場合、特に深く追求されることもないと分かっていた。

計算機コンピュータを触ることも無くなった。家の膝置機ラップトップを開くと鍵盤装置キーボードから一切の刻字が消えていた。「カウボーイ仕様だね」猫耳がしたり顔で解説する声が聞こえたような気がした。銀行で自動預払機ATMの操作画面にあの正四面体が浮かんでいるのを見た後、俺はあきらめて病院の予約をとった。

俺が症状を語ると、医者は卓上の端末デスクトップに時々それを打ち込んだ。俺には蛍光色の立体図形しか見えないのに、医者には何の不便も無いようだった。

「あなたの症例は以前はガーンズバック症候群シンドロームと呼ばれたものです。最近はギブソン症候群と呼ばれています。」

医者は俺に説明を始めた。まさか、自分のこれに名前があるとは思わなかった。

「幻覚を見ることは昔も今も変わっていないんですが、時代が変わるにつれて幻覚の内容が変わるようですね。三十年前は銀色ローム空中車エアカーが飛び交う未来都市メトロポリスだったそうですよ。」

「なんでこんな幻覚を見るんです。」
「あなたが見ているのは古き良き未来の共同幻想なんですよ。ただし、来なかった未来のね。」

俺はここ三十年の計算機の進歩から離れろという医者の勧めに従って、計算機からできるだけ遠ざかる生活を始めた。電話以外に通信手段のない場所に引っ越し、新聞を購読し、古い ラジカセ SONYで地元のラジオを聞いた。中古屋で昔の家具調テレビを探し出した。高い液晶テレビを買ったばかりだったのに、引っ越し直前には立体映像ホログラフィが映るようになっていたからだ。洗濯機は二漕式、炊飯器はスイッチが一つしかないものに換えた。調べものの必要がある時は自転車で図書館に行くようになった。慣れてしまえば、特に不便は感じなくなった。

それからしばらくが経った。身内に不幸があって、急に実家に戻る必要ができた。事故でもあったらしく、緑の窓口は払い戻しの客でごったがえしていた。俺は勇を鼓して、券売機の前に立った。病気はだいぶ治ったようだった。接触式の液晶画面タッチスクリーンで無事に切符を買うことができた。

しかし、ホームで待つ俺の前に止まったのは磁気浮上車マグレブだった。

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