ウイリアム・ギブソン連続体
突然、目の前の画面が消えた。俺の二時間の作業がディラックの海に還った。悪態をつくのと同時に端末が
瞬停か。築二十年の集合住宅の電気配線で綱渡りをするもんじゃない。自宅より職場で作業した方がよかったか。
冗談じゃない、と反論する自分の声が聞こえた。この二週間は忙しくて職場に行けなかったのだ。その前のひと月は忙しくて自宅に戻れなかった。「君も我らが
端末の前に戻ると、画面には見慣れた
再起動を八回繰り返した。CD起動どころか、BIOS画面に入ることもできず、メーカーロゴさえ表示されないことを思い知らされた後、俺は結局その四面体をにらみつけていた。
ウイルスにしてはよく出来ていた。それは認めよう。画面の中の立体空間は滑らかで、端末の表示性能を超えているようにさえ思えた。少したつと、俺はその空間を自由に移動したり回転させる操作ができるようになっていた。なにはともあれ、故障しているわけじゃなかった。
これは、我が家の三台の端末の配線図と同じじゃないか。
俺は三角柱の中に入って、緑色の線――そこからはトンネルのように見えた――の中に入った。何度か乗り換えがあった後で、広い部屋のような空間に出た。そこの壁には俺が通ってきたのと同じような穴がいくつも開いていて、俺が見ているのと同じような立体図形が出入りしていた。反対側の壁にはこちら側より数は少ないが、ずっと大きな穴が開いていて、立体図形たちが吸い込まれて行った。
自分の見ている物がISPの接続網だと見当をつけると、一番太い穴の中に飛び込んだ。今までとは数倍の早さで前進し、今度は体育館のように広い空間に出た。球形の体育館がもしあればの話だが。とにかく、きっとここは大手町のIXだ。
馬鹿げたことに俺の勤め先は外資系でもないのにアメリカ大陸の西海岸の
間違って堂島に出たりした後、俺は西海岸に上陸した。
俺は、なんでも大きくて太くて固くて黒いものが良いと訓示を垂れる社長の下品な顔を思い浮かべた。
その中に飛び込もうとすると、突然、画面の中の俺の周囲に無数の光点が沸き出して、羽虫の群れのように俺を包んだ。生理的な嫌悪感から、俺は後退した。するとその光点の群れが追いかけてくる。俺は声をあげそうになりながら、
あっという間に大手町まで戻ったが、すぐに光点の群れも太平洋を渡ってきた。だが、今度は俺にある程度の距離を置いていた。不審気に見守る俺の前で、それは凝集して人の形になった。
それは日本のアニメによく出てくる少女のような姿をしていた。肩幅よりも頭が大きく、目は拳ほどもあって、その中の星の数を数えることができた。緑色の髪の毛の中からは猫の耳が顔を出していた。無意味に裾の広がったミニスカートからは尻尾が伸びていて、不自然に豊満な胸元を隠すエプロンには「
彼女が口を開いた。
「ひどいじゃないか。君を救ってやったのに。」
って、男かよ。
「救うって何から。何故。」
「
何を言っているか一つもわからなかったが、日本語なことだけは確かだった。
「何故といえば、君は日本人だろう。日本は僕の魂の故郷だからね。ここは
「黒い氷だとか、平坦化だとか、オタク用語じゃなくて、わかる言葉で説明してくれないか。」
「君は
「それはオタクの世界で言うインターネットのことか。」
「インターネット?いいや、ここは電脳空間だ。カウボーイが企業の黒い氷を貫いてデータ海賊を働く
「悪いけど、意味が分からないね。俺は仕事をしなくちゃいけないんだ。」
「ああ、君は
俺は社長の友人のもっと下品な人物の経営するもっと大きな企業の名前を出した。社長がその企業と同じ情報中心を使いたがったがために、俺は西海岸まで行ってこんなアメリカンオタクに遭遇する羽目になったのだ。
「じゃあ、君の選択は正しかったし、やはり致命的に間違っていたことになる。君の企業はあの黒い氷の中だよ。」
「あの中にやらなきゃ行けない仕事があるんだ。」
「では君に必要なのは正規の
「あるわけ無いだろ。そんなもん。」
奴の猫耳がふさぎ、尻尾が垂れた。
「残念ながら私はカウボーイではないのでね。脳を灼かれるのはご免だから。」
「そもそもなんでこんな馬鹿馬鹿しいことになってるんだ。人間が手動で
「確かにそれが電脳空間だよ。君は飲み込みが早い。カウボーイの素質があるのかな。」
「そのカウボーイだとか、黒い氷だとかも意味がわからん。それって要するにクラッカーとセキュリティ対策のことだろ。クラッキングくらいで脳が灼かれるとか、阿呆か。」
奴は肩をすくめ、両手を上げた。
「君の言うインターネットのことはよく分からないが、僕はこの電脳空間の方が好きだね。つまり君の知ってるカウボーイは平坦化する危険を犯さないんだろ。それじゃディクシーのような伝説の人物になれないじゃないか。」
「その代わり、自分の仕事をしようとして、もののはずみで殺されたりしないぞ。」
「
俺は端末の電源を切った。電源ケーブルを引き抜き、回線を引きちぎった。たわごとはたくさんだった。それから最低限の身支度をして外に出て、タクシーを拾い職場に向かった。料金を支払う時になって気がついたが、割増を取られる時間になっていた。
無人の職場に入り、自分の席に向かう間、誰かの席の前を通りすぎる度にその机の上の端末から起動音が鳴った。自分の席につくと、画面の中央にレモン色の正四面体が回っていた。くそっ。いったいこれはなんだ。どうしてこの忙しい時に誰もいないんだ。
もう知るか。
俺は何の届けも出さずに仕事をやめた。そうしたのは俺が初めてではないし、こういう場合、特に深く追求されることもないと分かっていた。
俺が症状を語ると、医者は
「あなたの症例は以前はガーンズバック
医者は俺に説明を始めた。まさか、自分のこれに名前があるとは思わなかった。
「幻覚を見ることは昔も今も変わっていないんですが、時代が変わるにつれて幻覚の内容が変わるようですね。三十年前は
「なんでこんな幻覚を見るんです。」
「あなたが見ているのは古き良き未来の共同幻想なんですよ。ただし、来なかった未来のね。」
俺はここ三十年の計算機の進歩から離れろという医者の勧めに従って、計算機からできるだけ遠ざかる生活を始めた。電話以外に通信手段のない場所に引っ越し、新聞を購読し、古い
それからしばらくが経った。身内に不幸があって、急に実家に戻る必要ができた。事故でもあったらしく、緑の窓口は払い戻しの客でごったがえしていた。俺は勇を鼓して、券売機の前に立った。病気はだいぶ治ったようだった。
しかし、ホームで待つ俺の前に止まったのは
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