光市事件判決の決め手は結局、物証だったのではないか


気の重い話題だが触れてみる。


ここが顕著なのだが、今回の判決要旨を見る限り、「死刑判決の可能性がはっきりしたので、供述が変わった」→「反省の色無し」という単純な論理構成ではないように見える。「新旧の供述を物証と比較した場合、旧供述の方が整合性が高い」→「新供述は信用できない」という論証がかなり詳しくなされているからだ。そしてこれを前提とした結果、「では何故、このような供述が現れたか」→「死刑回避目的」→「新供述は反省の色無しの現れ」という認定につながっている。


単純に「新供述」が荒唐無稽だから信用できないのではなくて、現実の物証と整合性が無いので荒唐無稽と考えるほか無い、というわけだ。弁護側の法医鑑定が合理的で説得力のあるものであれば、「新供述」にも―それがいかに常識から外れたものであれ―ある程度の説得力が生まれたかもしれない。弁護側はこの物証の認定そのものが間違っていると主張しているわけだが、判決要旨を読む限りでは弁護側の主張する体勢・方法の説得力は私には薄い。


もちろん、これは法医鑑定書そのものを見たわけでもない素人の意見である。ただ、裁判員制度が始まると資料はちゃんと見せてもらえるにしろ、やっぱり素人が判断しなければいけないわけだ。正直に言うが、勘弁してくれと思う。今回のように首を絞める際の手の向きや体重の掛け方が問題になるのであれば、それなりに具体的に検討することができるが、そういうもので無ければ「専門家」の言うことを信じるほかないだろう。だが、それでは何のための裁判員か分からなくなる。そもそも「専門家」の意見が割れていたら、どちらを信じたらいいのか素人に判断できる手だてはほとんど無い。


それでも、ちゃんと物証を見ろと、肝に銘じなければいけないのだと思う。証言・供述がどれほど常識はずれで、珍奇なものであれ、とにかくまず物証と整合するかどうかを考えろと。そのあたりをもう少し強調しておいたほうがよいかと思う。いざとなれば、死刑判決という形で人の生死を決定する責任を負わされるのだから。


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