足腰

「サツまわり」という言葉がある。事件記者といえば聞こえがいいか。大抵の新聞記者が駆け出しの時代に経験するようだ。要するに警察を廻ってネタを集める役目である。日常的には警察発表を記事にするくらいしか記事を書くチャンスは無いだろう。そうやって顔をつないで、それなりに大きな事件があった時に捜査情報を聞き出したりする。地道な仕事だが、記者の訓練という意味合いも大きいのだろう。

あるいは記者クラブというものがある。これは元々は記者室の互助会みたいなものだった。大きな公官庁などには常駐の記者がいて、廊下に立たせておくわけにもいかず、記者室を設けて机の一つも用意した。記者室自体は日本以外の国にもあるが、なぜか日本では既得権益化して、極端に閉鎖的になってしまった。馴れ合いも発生していて、明らかに害になっている部分も多いと思うが、マスコミは大きく取り上げない。記者クラブに入れてもらえない新興メディアや「市民参加ジャーナリズム」が強く批判する論点の一つである。

ある程度大物の政治家になると「番記者」と呼ばれる記者がつく。今だと「小泉番」とか「安倍番」とかいるのだろう。要するに政治家に四六時中張り付いている記者である。今となっては信じられないことかもしれないが、かつて河野洋平氏は石原慎太郎氏と並ぶくらいの人気があった。その理由の大きな一つがマスコミ受けするということだった。それは何故かといえば、彼の父親の河野一郎氏の番記者だった人たちが長じてデスクなどの責任あるポジションについていて、子供時代から見知っている河野洋平氏に好意的だったからではないかと、沢木耕太郎氏が書いていた。


何の話かって?これみな全てそれ専属の記者がいるということだ。そのために必要な人員と経費を想像すると呆然とする。各都道府県の警察本部に一人記者を貼り付けるだけで、平気で数億円かかる。その割に結果として現れるのは、いわゆるベタ記事であり、官庁の発表の横流しであり、政治家の非公式な場での「談話」くらいだったりする。いつか来るかもしれないスクープのためかといえば必ずしもそうでもない。各紙各局が横並びで張り付いているのだから、そこで抜くのは容易ではないからだ。せいぜい取り残されないためでしかない。

それでも報道機関はこのために膨大な人と経費を投入する。言ってみれば、これがインフラとしての報道機関の役割である。閉鎖性や馴れ合いは非難されるべきだが、こうした役割自体が否定できるものでもない。


いわゆる新興メディアや「市民参加ジャーナリズム」が既存の報道機関に対して弱いのは、FACTAの阿部編集長が言うようなスクープだけではない。このインフラとしての側面が決定的に弱いのだ。何故かといえば単純に人と金と歴史が無いからである。

だからといって、ここで張り合わなければいけないというわけでもない。この手の記事は既存報道機関に任せたらよいのだ。そういう記事を読みたければどうぞYahoo!Newsをご覧下さいと言えばよいのである。

替わりに市民記者のもっとベタで小さな記事をどうぞと言えばいいではないか。これからの時期、秋桜の開花時期を報せる記事を日本全国から募ればよいのだ。近所の交通事故の多発する場所を地図と写真付で全国から募ればよいのだ。そういう記事が一つだけなら日記と揶揄されもするだろうが、一つのテーマで数を揃えれば新しいインフラとなりうるのだ。それでも記事が足りなければ、まだ始まったばかりですからとのんびり構えていればいいではないか。

それを何故、これほど姑息な手段で取り繕うとするのか。


そして、私が一番腹が立つのは、このしょうもない「記事」を作るために人の手を介していることである。誰かが、新聞社やNHKのサイトを巡回して記事をピックアップし、それを切り貼りして掲載しているのだ。そこには何の表現も無い。何を生み出すわけでもない。記者としてのあるいは編集者としての訓練も何も無い。そんな「作業」を人間に平気でさせる神経をまず疑う。GoogleNewsが一々人の手を介さずにより大量の記事をさばいている時代にだ。これは配信契約の有る無しとは関係の無いことである。

おまけにこんなことにもともと豊富でもないスタッフから人を割いているのだ。そんな暇があったら、一つでも多くの市民記者の投稿記事に目を通し、裏を取り、よりよい物にするために助言するべきだろう。あるいは取材に出かけて独自記事をものするか。

今やっていることはあまりに愚劣だという他ない。