この番組はフィクションであり…

あるある大辞典問題というか、納豆ダイエット問題だが、例えば次のエントリを読むと、程度の差はあれこうしたことはよくあることだ、という業界全体の認識になっているようだ。

こうみると、今回の番組はそう突出した例外ではない。異常なのは人違いのインタビューを吹き替えでごまかしたことだが、それも運悪く週刊誌の取材を受けたからばれただけで、実験データの捏造は過去にも疑惑が指摘されていた。納豆業界に事前に情報が流れていたというのも、別に問題になるようなことではない。だから不二家みたいに「総懺悔」にならないで、どうやって品質管理するか、どこまで演出が許されるかを冷静に考えたほうがよい。

不二家だって「どうやって品質管理するか」を「冷静に考えたほうがよい」のは同じだと思うが、まあそれはいい。問題は「どうやって品質管理するか」だが、現状はこんな感じ。

私は番組を発注する側にも受注する側にもいたことがあるが、発注元のテレビ局がこういう捏造をチェックすることは不可能である。試写でチェックするのは、客観的に見て辻褄のあわない部分やわかりにくい部分だけだ。下請けプロダクションは制作の過程から関与しているので、事実関係の誤りなどはチェックできるが、それでも捏造されたらだめだ。ディレクターが嘘をつくということは想定していないのである。


捏造を事前に防ごうと思えば、すべての取材過程に管理職が同行してチェックする「内部統制」が必要になるが、それでは仕事にならないので、チェックは人事でやるしかない。捏造がばれたら業界から永久追放される、という社会的制裁(ゲーム理論でいうtrigger strategy)が最後の歯止めだ。長期的関係で固定された下請け構造が、強力な品質管理装置になっていたのだ。

「長期的関係で固定された下請け構造が、強力な品質管理装置になってい」るのは、どの業界でもよくあることだろう。別に下請け関係だけではなく、売る側と買う側と考えてみれば、大抵の商行為・経済活動はこうした相互信頼を「強力な品質管理装置」としているとも言える。逆に言うと、テレビ業界というのはこれしかないということなのだろう。


しかし、“多少の演出は当然”みたいに業界全体が思っているとしたら、そもそもこのチェック機構自体が働かないだろう。その中で度が過ぎた部分がたまに今回のように露見して、その時だけ騒ぎになって、また日常に戻るわけである。


上記のエントリのコメント欄や、あるいは以下のエントリを読めば、こうした状況は業界構造から来ている節もあり、要するに根が深いし、今すぐと言われてもどうしようもないといった感じである。

じゃあ、だ。とりあえずどうしようもなくて、何かあった時にいちいち言い訳をするくらいなら、最初から断り書きをしておいたらよいのではないか。そう、大抵のドラマの最後に現れるあの断り書きを援用すればよろしい。「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係がありません。」というようなあれだ。


例えばこんなふうに。

この番組は実在の学説を元に構成されておりますが、番組内の検証は必ずしも科学的厳密性に耐えうるものではなく、番組の結論の真実性を保証する物ではありません。この番組の内容に従い、ダイエット・健康増進等を試されても効果が全く無い場合があります。ご了承ください。


あるいはこんなふうに。

この番組に出演する占い師・霊能者等の能力は全て自称のものであり、科学的根拠の伴うものではありません。というかこんなもんいちいち真に受けんな。


個人的にはこの手のエクスキューズをしたら後は知らんというのはあまり好きではないが、既に長年ドラマでは特に違和感も無くやってきたのだ。この他に報道番組用のものとか、スポーツ番組用のものとか、お笑い番組用のものとか、それぞれ考えたらいいだろう。


ドラマを真に受ける人たちと「あるある大辞典」を真に受ける人たちで、どっちが多いかと言えば明らかに後者なのに、ドラマにだけ断り書きが付いているというのは、何か変だと思うのだがどうだろうか。


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