Gripにまつわる問題の本質とは

先の「カルマ」にまつわるエントリの冒頭で、私はこれが『「ことのは騒動」における本質とはほとんどからまないだろう』と書いた。その割に最終的に、Gripへのオウムの関与が無かったことを強く示唆する結論となった。これはまさに本質の一つではあるわけで、自分の先見の明の無さにはつくづく呆れるばかりである。

とはいえ、私が最初に「本質」と書いた部分については依然としてノータッチであることも確かである。その「本質」とは何か。


それはあの企画書を書いたのは誰か?Grip企画を実質的に作り上げたのは誰か?という問題である。


改めて「Grip 報道メディア設立企画書」を読み込んで、私は不思議に思うことがあった。あの企画、あのシステムに泉氏の居場所が見えないのである。

スラッシュドットDiggの最大の違いの原因は「編集者」が存在するかしないかであると、既に述べた。Digg型のサイトは「編集者」を本質的に必要としない。むしろいては困る。だから、Gripにも編集者の役割は無い。Digg型のサイトに必要なのは、システムを円滑に動かしつづける技術者であり、規模を支える資金であり、広告ビジネスの営業であり、後はせいぜい荒らし等を見張る監視員である。

泉氏は記者だ。OL経験が長いようなので、事務所に入って事務仕事をするのは可能ではあるだろう。だが、元々彼女は記者をするためにこの企画を立ち上げたはずだ。泉氏の居場所を探すなら、記者としてのそれを探すべきだろう。

たしかにGripに「記者ユーザー」という単語は現れる。これについての記述が乏しいのだが、これは「記者として登録されたユーザー」を示すものか、あるいは「ユーザーの記者としての役割」かであろう。どちらにしてもシステム上、特権的な役割のものではない。基本的に誰もが記者になれるというところまでしないと成り立たない性質のものである。

その大勢の一人に泉氏がなる予定だったのだろうか。そうかもしれない。もちろん泉氏はGripでの看板記者として扱われるだろう。すくなくとも初めは。しかし、それが長く続かないことは容易に想像できる。これは泉氏の能力の問題ではない。多くの記者が参加しなければ成り立たないシステムであり、彼らの評価を決めるのはユーザーの直接的な行動によるシステムである。単発であるいはボランティア的にするならともかく、職業的に考えれば、激しい競争にさらされるのが前提のものなのだ。

しかも、ユーザーカルマのビジネスモデルは記者に収入を保証するものではない。そもそも記者に対するインセンティブについての記述さえ無い。

泉氏が職業的な記者としてやっていくのであれば、スラッシュドット型のサイトの方が向いていたはずなのだ。スラッシュドットの編集者というのは、書き下ろしの記事を書く場合があるし、インタビューには自ら出向く。記者の役割も果たすものなのである。実際にはスラッシュドットの編集者はボランティアがほとんどだが、雇用関係が存在しても不自然ではない。職業にし得るのである。だが、Digg型のGripにそんなものは無いのだ。

そしてGrip以前の「WordPress」や「草案」には編集者という立場がはっきり明記されていた。泉氏が語っていた「4人のキーマン」というのは、「草案」の中にはっきり位置付けされている。WordPressは基本的に「草案」を受け継いで発展させたものだ。だが、Gripはそれまでのものとは異質なものである。なんらかの方針変更があったに違いないが、その際に自分が何を選んだか気づかなかったのだろうか。

もちろん泉氏が自分の職はともかく、理想のメディアの形を追求した結果だということであれば、それは純粋に頭の下がることである。だが、自らのブログで金銭的な窮状を何度も訴えていた泉氏にそこまで要求するのは酷というものだと思う。


ここに結論は無い。

私はこの3日で、Gripという企画に興味と好意を持った。実現しなかったことが残念である。それについてはまた別に書く予定だ。だが、この企画書を泉氏が書いている姿は、この企画書からは見えない。やはりご本人のもっと具体的な言葉を待つより他にないのである。