佐々木編集委員は何が言いたいのか(2)

この話題を一箇月も放っておいたのは、手をつけかねたからというのが正直なところである。このエントリのタイトルも本当は疑問文にするべきなのだと思う。ぶっちゃけ分からないのだ。佐々木編集委員が本当は何を言いたいのか。だから、書くことによって自分の整理をつけてみようというのが、このエントリの目標である。ああ、また着地点を見ないままに飛ぶのだ。

フェーズ1:オーマイニュース正式創刊前夜

まず、佐々木編集委員登場の段から見ていこう。正式創刊まで一週間を切ったタイミングで、創刊準備ブログ(当時)に上げられた記事が以下の二つである。

まず編集委員に就任する経緯を述べた上で、「身内」となったオーマイニュース編集部に3つの問題点があると言う。その筆頭がこれである。

(1) オーマイニュースはそもそもどういう立ち位置なのか

ここでの主張は、基本的には以下のような部分に集約されるかと思う。

マトリックス化された言論空間の中では、自分がマトリックスの中のどのような立ち位置で記事を発信しようとしているのかという「立ち位置」が明確に求められる。そうでなく「自分はそうした言論マトリックスとは無関係に、あくまでも第三者的な立場から客観報道を発信する」という立場を取るのであれば、それは明確な立ち位置のひとつであって、第三者的な客観性がきちんと求められることになる。

私はそれを肯定も否定もする気はないが、もしオーマイニュースがそういう主観を持っているのであれば、みずからの立ち位置をステートメントとして明示すべきではないだろうか。もしそれをあえてしないのであれば、左右新旧のぶれのない客観報道に徹するべきではないのか。

要するにオーマイニュース編集部として左右新旧のどこに立つか、あるいは中立か、はっきりせよということだ。

ここで私の頭に浮かぶのは「ポリティカルコンパス」である。各市民記者の記事の署名の横辺りにその記者のポリティカルコンパスの座標図が出れば、それは面白いかもしれないが、マンガというかネタ的状況である。座標図は極端にしてもあらかじめ立ち位置を明確にしたところなどあまり見ないし、世間的にそれを求められているかというのも疑問である。

まず、そういう「立ち位置」を明確にしたマスメディアというのは、あまり見ない。大抵は「中立」を標榜しているだろう。テレビ局のように放送法によってそれを規定されている場合もある。ネットでは違うかというと、ごくまれに座標図が出ているところはたしかに見たことがあるが、それもネタ半分だろう。
いずれにせよ、そのコンテンツによって外部的に判断されることは多いと思うが、自称というのはやはり少ないのではないか。それを宣言することを求められるという例もあまり思いつかない。

そして現状の編集部については「無意識の左曲がり」だとの評価が下る。そのために例にひいた中台記者の靖国レポの記事が、その評価にふさわしくないことは既に指摘した。しかし、例が悪かったことを除けば、その評価自体は外部から見ても説得力のあるものではあった。むしろ多少強引な例を引いてでも編集部が「左」にいることを指摘したかったのだろう。さらにそれが無意識なものだとして、自覚を求める。

まあたしかに言論機関に勤める者として、そのあたりにあまりに能天気だというのは困ったものだとは思う。そういう意味では、編集部の中台記者のような若手への訓示としては分からないでもない。だが、左・右・中立のいずれに立つか外部に向けて宣言せよというのは訓示の範囲ではあるまい。

では、それはなんのために?その疑問を抱きながら、佐々木氏があげた第2の問題点へ進もう。

(2) オーマイニュースは何を書こうとしているのか

このパートでのキーワードは「書き手と読み手の共通基盤」である。

かつてマスメディアの記事は、「多くの人が拠って立つと信じている基盤」があるという前提の上で書かれていた。「みんなが平等で幸せになれる社会こそが善である」「政府のやることは悪で、市民のやることは善いことである」という牧歌的な土台があり、その土俵の上でお互いの気持ちを確認できる記事であれば、それで良かったのだ。

しかし高度経済成長もバブル経済も終焉を迎え、総中流社会は崩壊した。人々の拠って立つ基盤は失われたのである。

共通基盤という認識の欠如した記事には、その書き手にきわめて近いイデオロギーを持った読者しか感動することができないのだ。

「開店準備中ブログ」で書かれてきた記事は、果たしてこのような書き手と読み手の共通基盤を探ろうという努力があったのか。おそらくそれらの記事の大半は、きわめて限られた特定の読者層にしか訴求できなかったのではないか。

かつてのような既存マスコミ的感性は今となれば「無意識の左曲がり」になるわけだが、それを支えていた読者層は既に無くなっているか、分裂し、縮小してしまっているということだろう。そのことに気がつかず、昔どおりのやり方をしていると「きわめて限られた特定の読者層にしか訴求できな」いということである。

現状分析としては大変に説得力がある。だが、だとすれば少なくとも「左」か「右」の立ち位置を明確にすることは、かえって自分の首を締めることにならないか?数は少なくてもいいから、イデオロギー的に近しい、共通基盤のしっかりした読者をがっちりつかめということだろうか?
あるいは、残る選択肢である「中立」を選べということだろうか?


続くパートはブログや2ちゃんとの関わりの問題であって、この件とは直接の関係は無い。



結果として、佐々木編集委員の目指しているものがよく分からないというのが、ここまでの結論にならない結論である。