佐々木編集委員は何が言いたいのか(3)

まだフェーズ1。長くなりそう。

承前

佐々木編集委員が創刊準備ブログに上げた二つのエントリは、ネットで話題になった。その反応は概ね良好なものだった。反対にオーマイニュース側、すなわち編集部と市民記者には異論が無いわけではないようだった。既に市民記者しか書き込めない設定になっていたコメント欄が盛り上がる。そこで投げかけられた疑問に対して答えるという形で佐々木編集委員が再度登場する。

ここでのキーワードは「鉄壁プロセス型編集」である。

私が「オーマイニュースへの疑問」というエントリーをあえて書いたのは、内部での意見対立をブラックボックス化すべきではないと考えているからです。

しかしオーマイニュースは、市民参加メディアです。そうであれば、内部の意見対立をブラックボックス化すべきではないと思っています。編集部内部の対立をすべて丸め込んでしまって外部に完成品だけを提供するというのでは、それは編集部が外部の市民をシャットアウトし、編集部と外部との間に「壁」を作ってしまっているということになりませんか。

そのような鉄壁プロセス型編集ではなく、ひとつの「場」「圏域」を作りだし、その場をプラットフォームとして維持していくようなメディアのあり方が、いまこの時代に期待されている市民参加型メディアじゃないかと思うのです。それはまさしく、いまインターネット業界で語られているWeb2.0というパラダイムと同じものです。

さて、編集部内部での意見対立をオープンにすることによって「鉄壁プロセス型編集」を打破し、オーマイニュースを市民記者の記事を発表するプラットフォームにすることが、このエントリの目標だったそうである。これ自体は説得力のあるものではある。

だが、だとしたら、「編集部の立ち位置を明確にする」という最初の命題との整合性はどうなるのだろう?もし、編集部としての立ち位置を外部に向けて宣言したりすれば、それは内部にも外部にも「鉄壁」を作り出すようなものではないか?

このコメントの直上で展開されている「共通基盤」の話題とはどうだろうか。「共通基盤」が分裂し、それぞれの規模が小さくなってしまった現状において、「鉄壁プロセス型編集」を行えば、それはすなわち小さな規模の読者層にしか訴求できないということになる。だから、編集部の内部対立をオープンにする。うん。ここまでは話が合う。

しかし、そもそも編集部には「無意識の左曲がり」が蔓延しているのではなかったか。つまり、そもそも編集部に内部対立などあるのか。


そんな中、オーマイニュース正式創刊の前日にCNETの佐々木氏のブログに新しいエントリが上がる。

 だがそう簡単には対立軸なんてものは生まれてこないし、そうこうしているうちにどんどんオーマイニュースの正式スタート日(明日、8月28日だ)は近づいてくる。こうなったらしかたない……と私は、みずから対立軸になることを編集部の判断とは関係なしに勝手に決めて、そうしてあのような原稿を書いたのだった。自分が道化のような立場に立たなければならないとは、まさかオーマイニュースに関係し始めたときには想像もしていなかったのだが……。

なんと。そもそも編集部内に対立など無かったと。無いから仕方ないので自分が「対立軸」になったのだと。あえて、道化のような立場に…。

そして、ようやく佐々木氏の本音らしきものが開陳される。「らしき」というのは、こうまで振り回されてはこれさえも疑わざるをえないからである。

 しかし私が上記のコメントで書いたように、そうした新たな「場」「空間」を作り出すためには、そのプラットフォームに徹底した中立性が求められる。中立性のないプラットフォームには、そのプラットフォーム管理者の好みに偏った人たちしか集まらない。

 オーマイニュースはそのプラットフォーム自体は興味深いと思ったけれども、プラットフォームを構成している人たちが中立ではないように感じたし、そうであれば中立なプラットフォームにはならず、多くの人たちが集まる場所にはならない。

結局、佐々木氏にとっての選択肢は「中立」一択であったということだ。だが、編集部内部の意見対立の構図というのは、必ずしも「中立」とは整合しない気もする。編集部にも様々な意見があるくらいだから、市民記者も様々な立場からの意見を寄せていただいて結構ですよ、という意味での「中立」だろうか。それなら分からなくも無い。

それにしても本当に編集部内に「無意識の左曲がり」は存在していたのだろうか。いや、それ自体は存在していたような気は確かにする。少なくとも読者としての私はそう感じていた。不可解なのはそれを証明するために例に使ったのが中台記者のあの記事だったということだ。あれは、むしろそういうものから自由なものだった。他にもっと適切な例は無かったのか。

それが、適切な例ならあったのだ。鳥越編集長がFACTAのインタビューなどで、既にさんざん「左」の方へ旗を振っていたのである。あるいは昔ながらのマスメディア的論法を繰り返していたのである。それもちょっとした言い回しなどでは無いレベルで。

鳥越氏のようなキャリアのある人物が編集長という立場であれほどはっきりと方向性を示しているところで、若手の多い編集部全体がその影響を受けないということ自体がありえないことだろう。だとすれば、佐々木氏が対決すべきは鳥越編集長自身であり、編集部内にはせめて編集長に引きずられるなと言うべきではなかったか。

だが、佐々木氏はそれをしない。

 私は鳥越編集長は人間として尊敬しているし(そもそも前の会社の先輩だ)、鳥越編集長のようなスタンスの言論はおそらく今の50代から60代あたりの団塊世代を中心にした層を代弁しているように感じるから、それに対して異論を唱えようという気持ちはまったくない。だがそうした言論は、いまの20代から 30代を中心にしたネットの世界の言論とはかなり異なっているし、それはそのまま新旧だけではなく、左右の対立にまで巻き込まれてしまって、終わりなきイデオロギー論争を繰り広げなければならなくなってしまう――

佐々木氏自身は鳥越編集長的言論を左右新旧の座標軸の中で「旧・左」という位置に置いて、それはそれでまたよしとしている。そうすることで不問に付してしまうのだ。代わりに生贄にされたのが中台記者である。彼自身は特に左側に立っていたわけでもないのに。

自らが対立軸になると言うなら、そして対するのが鳥越編集長の「旧・左」であるのなら、すべきことは佐々木氏自身の「立ち位置」を明確にすべきではなかったのかと思う。若い記者をダシにすることはなかろう。



ここまでで見えてきたことをまとめておこう。

佐々木氏の記事を読む際に厄介なのは、部分部分には説得力があるということだ。ここまででパートとしては都合4つを取り上げたが、それぞれは一見筋が通っているように見える。

だが、中台記者の記事の例を見れば分かる通り、時として我田引水的な論法があることに注意しなければならない。さらにパート毎の論旨の不整合は、よく読めばひどいものである。それが結局なんだったのかと言えば、ありもしない対立軸を作ったように見せて、自分の欲しい「中立」という結論に落とし込もうとする作業だったわけだ。

最初からそれを主張すればいいではないかと思うが、それはしない。何故か。実をいえば、対立軸は無いわけではなかったからだ。鳥越編集長という最大の軸がありながら、そこを突くことを避けたからだ。避けるために「ためにする議論」をしたわけだ。



そしてオーマイニュースは創刊し、サイトの規模から考えればボヤという程度の「炎上」があって、ブロガーシンポジウムは開かれた。