Kick their collective ass!


集合知性というのは、SFで時々取り上げられるアイディアの一つである。英語だと“collective intelligence”とか、“collective brain”とか、“collective wisdom”とか言うのだろうが、よく知らない。wisdomかな。


例として思い浮かぶのは、モフィットの「創世伝説」のナーや、アジモフファウンデーションシリーズの最後のほうに出てきた……ガイアだっけ?とか、スタートレックのボーグとか。なんとなく邪悪なもの扱いが多いような気がするが、そうでもない。


一つ目のよくあるパターンは、集合知性体が超越的な知性を持っていて(そりゃそうだろう)、どういうわけか超越的な力まで備えているというやつだ。前述のガイアとか、クラークの「幼年期の終わり」のオーバーマインドとかがこんな感じ。肉体的な実体はもう持ってなくて、精神だけの存在になっている。それなんて神様?というわけで、これは要するに「デウス エクス マキナ」であり、これ以上の展開はなかなか難しいので、これが登場するとたいていそのままオチとなる。


二つ目のは、完全に全滅させない限り何度でも蘇る不滅の強敵というもので、知性を持った蟻や蜂などの社会的昆虫といったイメージである。ボーグが典型だろう。遭遇戦・局地戦では勝てるのだが、全面対決となるとこれっぽっちも勝てる気がしないので、続編を作っているうちにだんだん辛くなる。仕方ないので映画ではボーグ・クイーンが出てきて、これを倒すという大目標に向かってストーリーは進行する。盛り上げやすいのは確かだが、集合知性というアイディア的には面白みは減ってしまう。カードのエンダーシリーズのバガーまでいくと、窩巣女王だけが知性を持っていて集合知性という性格はほとんど無い。


三つ目は、個体の集合体=群体というもので、ナーがこれだ。スタートレックの可変種もこれ的だった。個体としての個性も残しつつ、集合知性としての性格も持つのだが、超越的な力というのは持っていないことが多い。なので派手な展開には使えないのだが、その種としての性格づけ――ナーがやたらに協調的なとこ――だったり、集合体からはぐれた個体の苦悩を表現したり――こっちはオドーですな――といった心理劇用の仕掛けになる。単純に言ってしまうと「社会と個人」というものの暗喩である。こう書くと身もふたも無いけど。



ベアの「ブラッド・ミュージック」のヌーサイトも集合知性だった。これは上記3つ全ての特徴をいい具合に併せ持っている気がする。SF的な面白みとしてはこれが一番だろうか。


そういえば私は「ブロゴスフィア」という単語を目にする度にどういうわけか心の中から小さく「けっ」という声が聞こえてきて謎だったのだが、今その理由が分かった。これって「ヌースフィア」を念頭に置いて出来た言葉じゃないかと思うのだが、それと比べてSF的なアイディアとしては圧倒的につまらないので、「けっ」となるのであろう。ひどいSF脳である。



ところで表題の件だが、これはビジョルドのヴォルコシガンシリーズのどれかで見かけた表現である。ベタに訳すと「やつらの集合尻を蹴っ飛ばせ」かな。この場合の相手は機密保安庁という官僚組織なので、特にSF的というわけでもない。が、集合知性がアリなら、集合尻もアリだよなと思って可笑しかった。ビジュアルに想像するとおぞましいものになるか、夢の光景になるかは人それぞれである。はいどうぞ。


最近は、お馬鹿な集合知性に腹を立てている人も多いようなので、そういう方が罵倒する際の参考になればと思いご紹介した次第。


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