そんなに安くはないけれど


昔、東京に初めて出てきた時のことだ。私は一人暮らしのための電化製品を求めて、秋葉原を歩き回った。


驚いたのは、どの家電屋の値札にも「値引きします」と書いてあったことだ。店員に声をかけると即座に電卓が叩かれる。うーん。じゃあこれは?うーん。また来ますと言って別の店に行く。


一日歩き回って、最低限の家電を購入したが正直言って不満が残った。というかうんざりした。


第一に時間の無駄である。値札を見てまわるだけでは店同士の比較にならない。いちいち電卓の世話にならなければならない。
第二に気疲れする。田舎から東京に出てきたばかりのガキが大人と金の交渉をするというのは、それだけでもしんどい。
第三にせっかく値引いてもらったわりにお得感が無い。万単位の買い物などほとんどしたことの無いガキが交渉で有利に立てるはずもなく、「ほんとはもっと安くなったんだろうな」という感覚しか残らなかった。


結果的に私は二度と秋葉原で家電を買うことは無くなった。PC系のパーツはごくまれに買いにいくこともあるけれど。




私の知り合いには、この「値切る」ということが大好きな人が何人か存在する。そして、その人たちはことごとく関西人である。ただし、急いで言っておくが私の知り合いの関西人が全てそうだというわけではない。


ある先輩は比較的マイナーな量販店でコンポを買う際に実に粘り強い交渉をして有利な買い物をしたと自慢した。値引かせ、おまけをつけた。送料はもったいないので自分で運んで帰ったという。コンポって重いんじゃないですか?15kgだったな。先輩の家、駅から15分以上じゃないですか。値段を聞くと、もう少し大手の量販店で買えば送料もおまけ代も出る程度の値段だった。


ある友人はキャバクラで値段交渉をしないではいられなかった。真冬の深夜でも店の前で客引きと交渉し、延長の度にボーイと交渉する。喜べ、二人で2千円安くして、かわきものはサービスや。彼は、その交渉に15分以上をかけることがあった。それは時間制の店の料金から考えて、ちょうど彼が勝ち取った金額に見合うものだった。


共通して言えることは、値段交渉を終えた後の彼らは自慢げで、嬉しそうである。彼らにとって値段交渉はゲームであり、スポーツなのだ。必ずしも経済合理性に適わなくとも、値切ったという事実が彼らのトロフィーなのである。私には真似できない。




先日、私は急にデジカメを買わなければいけなくなった。量販店の通販サイトを見て、買うべき製品を決め、値段を確認した。翌日、店舗に赴き、売り場に行き、目指す製品を見つけた。


通販サイトと値段がまるで違う。サイトでは2万7千円だったものが、店舗では3万5千円もするのである。携帯電話で通販サイトを確認する。記憶に間違いはない。普通なら家に帰って通販に切り替えるところだが、時間が無い。デジカメは明日必要なのだ。


私は店員に声をかけて、事情を聞いた。通販と値段が違うのは分かるけれど、これはどっちかが間違いってレベルじゃないの?こちらの方がポイントがたくさんつきますから。でもこんなにはつかないよね。もしかすると値段改定の連絡がまだ来ていないのかもしれません。じゃあこれは仕方ないんだね。ポイントこみで同じ程度になるようにお値引きすることもできますが。ほんとに?


彼はレジに行ってしばらくごそごそとやっていたが、戻ってきて首を振った。レジで値段操作できる限度を超えているので、通販サイトとは同等にならないと言う。いいよいいよ、じゃあこっちの機種にするよ。ああ、そっちの方が型が新しくてお勧めです。


私は当初予算でデジカメを買うことができて、それは満足したのだが、ちょっとしたショックが残った。ポイントカードですっかり囲いこまれて、その大手量販店ばかりを長年使っているのだが、まさか値段交渉の余地があるとは一度も考えたことがなかったからだ。




本による知識でしかないが、東南アジア・インド・中東といったあたりは何をするにも値段交渉がつきもののようだ。亡くなった鴨ちゃんのアジアパー列伝とか、沢木耕太郎氏の深夜急行とか、亡くなったエフィンジャーのブーダイーンシリーズとか、何につけ値段交渉のシーンが現れる。


しかも、それは少しまけてというレベルではない。お互いが最初に提示する値段は10倍ほどの開きがあるのが普通なのだ。ブーダイーンシリーズになると、これにイスラム的挨拶というか雑談が追加される。都度都度アラーの神に感謝を捧げつつ、もしかして出来レースなんじゃないかというような交渉を続ける。読み物としては楽しいのだが、これが日常だとすれば、私には気が重すぎる世界である。


日本では、三越の創業者である三井高利が1683年に「正札付き現銀掛値なし」という商法を始めて、繁盛した。少なくとも小売りレベルで、日本が基本的に値引き交渉の無い正札主義になったのは、これを嚆矢とすると言えるだろう。おかげで私のような人間でも気楽に特に損することもなく、買い物ができるわけである。そして、これは私の直感に過ぎないが、いちいちの商行為に値段交渉が必須とされる社会は、ぶっちゃけて言えば経済発展にある種の足かせがかかった状態にあるのではないかと思う。




値引き交渉の好きな人にそれを止めるような野暮は言わない。ある種の人にとってそれは人生の楽しみの一つだからだ。だが、それが楽しみのレベルですむ社会であればと思う。そうしないと生きていけない社会には、私はたぶんついていけない。



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