中台達也記者を弁護する

という記事が掲載されて、記事についたコメントでもはてなブックマークでも、なかなか好評である。「初めてまともな記事を読んだ」とかコメントがついているのを見ると心中複雑ではあろうと思う。

この記事を書いた中台達也記者、ここで2度ほど取り上げたどアップの写真の人だ。

要するに市民記者ではなくてスタッフの記者だが、それがどうとか言うつもりは全く無い。そして、佐々木編集委員が一石を投じたエントリで槍玉にあげられ、「無意識の左曲がり」と評されてしまった人でもある。

私は中台記者の靖国神社の記事を市民記者にとって「模範と考えれば良い模範だと」思った。だからこのエントリを読んで、おや、と思った。その部分を引用しよう。

しかしこの記事は、客観報道の体裁を一見とりながらも、首相の靖国参拝に好意的な言葉を語る市民に対しては、「持論を展開し始めた」「ニヤリと笑う」「まくし立てた」という表現を使い、一方で批判的な市民については「静かに語る」「静かにそう語った」「言葉を継ぐ」といった言葉遣いをしている。その表現や、前半に参拝賛同意見を載せ、後半で反対意見を畳みかけるようにつなぐその原稿構成を見れば、中台記者がどのような立ち位置で記事を書いているのかは明確だ。彼は靖国参拝に対して、明らかに嫌悪感を感じているのである。

この後、例の「無意識の左曲がり」論が表れて実にうまいこと話がつながっている。
私がおやと思ったのは、佐々木編集委員が言うような「意図的な記事」という印象が全く無かったからだ。私が読む限り、佐々木編集委員の理解はおかしい。中台記者の靖国神社の記事の後編をちゃんと読んでいないとしか思えない。読んだらわかることだが、そこに「首相の靖国参拝に」「批判的な市民」は実は登場しないのだ。だから、「後半で反対意見を畳みかけるようにつな」いでなどいないのだ。

後編の主役とも言うべき「品川区の無職男性(65)」は冒頭で「「私が終戦記念日にここへ来るのに何の政治的な理由もない」と語る。この人自身は参拝に来ている人だ。自分は参拝するが、首相のは反対だという人もいるだろうが、この人は小泉首相の参拝についてなど一言も語っていない。「…だから、可能な限り静かにしてほしい。ここは静寂が本来の姿。騒ぐ必要なんてないし、できるだけ騒いでほしくない。今は、この靖国神社がお祭りの会場のようだ」と語って記事は終わる。

その間で描写されるのは、取材に狂奔するマスコミの姿である。

どう読んでも「品川区の無職男性(65)」が「静かにしてほしい」と批判的に見ているのは、神社の静寂を乱すマスコミの姿だろう。決して小泉首相靖国参拝ではない。この記事からもし中台記者の嫌悪感を読み取るとすれば、それは「靖国参拝」ではなく、「靖国参拝」にかこつけて傍若無人に振舞うマスコミの姿だろう。そう思って前半を見直せば、そこにあるのは終戦記念日靖国神社を訪れた人たちの様々な姿でしかない。そこはそこで賛成から反対まで見渡したバランスのとれたものだ。いったいこの文章のどこが「無意識の左曲がり」なのか。


冒頭で取り上げた記事は新聞業界のタブーの一つ、「押し紙」に関するものである。中台記者は北海道新聞社に勤めていたそうで、北海道新聞といえば北海道警の裏金問題を追及したところである。この一件が元で北海道新聞は北海道警の「反撃」を受けているとも伝えられている。中台記者ではないが、そのことを扱った記事オーマイニュースにもある。その結果として北海道新聞の内部もずいぶん傷ついているようだ

これは私の想像に過ぎないが、こうしたごたごたの中で中台記者の中に既存のマスコミに対する批判的な見方が生まれたのではないかと思う。そして勤めていた会社を辞め、彼なりの夢をオーマイニュースに見たのではないか。そういえば、そもそもこの裏金問題を最初に報道したのは他ならぬ鳥越編集長だった。


記者の文章として、「まくしたてた」というような主観の混じる表現は避けよと言うなら分かる。あるいは「ニヤリと笑う」というような紋切り型の表現を安易に使うなと、若手の記者に諭すのなら、それは分かる。それは作文技術ではあるが、記者としての態度を律する一つの基準でもある。

だが、佐々木編集委員の論点はそこではない。彼はそうした細部の表現によって結果的に中台記者の記事が「無意識の左曲がり」に陥っていると言いたいのである。そのために記事中の微妙な表現をことさらに抜き出して見せる。全体の文脈を見れば「左曲がり」ということなど全くないのに。「意図的な記事」を書いているというなら、佐々木編集委員の方がよほどひどい。


佐々木編集委員が何故こんな「意図的な記事」を書いたのか、次の稿で検討しよう。ひとまずここでは、中台記者にエールを送る。あの押し紙の記事の続報を期待しています。